2012年04月09日
お引越ししました。
ここでお知らせしたと思ったのに、なぜかUPされてなかった。。。涙
新しいブログのタイトルは
自分が2003年に出版した詩集「神さまの名前を私は知らない」と同じタイトルにしました。
瞑想を1年ちょっと続けたい今、この詩がより理解できて深いものになったからね。
今もこれからもこの感覚、この気持ちを忘れずに生きていきたいな。
神さまの名前を私は知らない
なぜならそのひとは
時に友となり
時に親となり
時に恋人となり
時に敵や病となり
時に子や動物となり
時には空や海や山となり 音楽となって
私のまえにあらわれる
だから
なんでもだれでも神さまになれる
これからはこちらのブログで「神さまの名前を私は知らない」で宜しくお願いします!
2012年02月09日
突然、気づいたよ!
夢の中で自分がいて、自分の以外の誰かがでてきて、
その誰かに意識を向けると、一瞬でその誰かに自分がなってる。
そして、そのまま意識を引いていくと?夢全体の意識にもなれている。
これって、もしかしてワンネスの意識なんじゃない?
いつも夢から覚めると、自分が誰になっていたのかを思い出すのに苦労して
全体のイメージもちょっとしか思い出せない。
もしかして、私たちが生まれる前の記憶を思い出せないのと一緒なのかもね。
ちなみに今年に入ってから見る夢は、奇想天外で面白い。
周りからもそんな声がチラホラ。
今日はどんな夢をみるかな?
ベッドに入るのが楽しみ~\(^O^)/
2012年02月07日
「世界を、こんな風にみてごらん」
今日は動物行動学者の日高敏隆さんが書いた「世界を、こんな風にみてごらん」をご紹介します。

帯には脳科学者の茂木健一郎さんの推薦があり「学問をすることが、生きることと一致する。そんな奇跡への道筋を先生は教えてくださった」とあります。
この本を手に取った理由は、
『人間はイリュージョンを持ついきものなのだ。イリュージョンなしに生きられないといってもいい。』
この一小節が目についたから。
では、さらにちょっとだけ抜粋してみましょう。
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■「なぜ」をあたため続けよう
ぼくは、小学校のころ学校に行かなかった。戦時教育下に、いわば登校拒否のぼくがすごした場所は、まだ東京にそこかしこに残る原っぱだった。
あるとき、枝にいっしょうけんめいはっている芋虫に思わず話しかけたことがある。「おまえはどこに行くの?何を探しているの?」
芋虫は答えなかったけど、ぼくにとって、それは大切な原点だったかもしれない。
■人間、この変わったいきもの
たとえば人が死ぬ。何か思いがけない理由で死ぬと、葬儀では「故人もこんなことになって驚いているにちがいない」などという。
まるで死者がどこかにいて、その状況を見ているかのように。そして死んだ人の今の気持ちをくみ取ろうとする。
そのことを人間はあまり変だと思っていないけれども、ほかの動物にくらべるとそうとうに変わっている。
人間はイリュージョンを持ついきものなのだ。イリュージョンなしに生きられないといってもいい。
神話や民話、伝説など、人間が昔から伝えてきたストーリーを読んでいると、人間にとって死ぬことはものすごく大事な問題だということがわかる。
英語に「dead」という言葉がある。死んでいるということ。
しかし、その言葉を使って本人がアイアムデッド(私は死んでいる)と述べることはありえない。
あくまで、死者の隣にいる人が「この人はデッドだ」と表現する。
そういうことで、いった人間は、ひるがえって自分が生きているを確認できる。
実はそのことが非常に大事ではないかという気がしてる。
元気なひとはあまり死を考えないけれども、身近な人が亡くなったり、自分が病気になったりして死を意識すると、いったい今までやったことはどうなるのかとか、死んで自分がいなくなったらその後はどうなるだろうとか、それまで考えなかったことを考えはじめる。
死んだらものごとは終わる。自分がいなくなる。そして自分が死んでいるということを自分ではいえない。考えてみると、死というのはとても変な状態だ。
死を知っていることが人間とほかの動物との違いだと、ぼくが考えはじめたのは、それほど若いときのことではない。美を感じることもほかの動物とは違う。いずれもわりに近年、とくに重視して考えるようになった。
・・・ある先生が、生きていることはどういうことかを生物学の本に書いた。それを読んで初めてぼくも生きているということはどういうことか考えるようになった。
・・・そんなことを考えると、人間はまともな先生についてはいけないのだという気がしてくる。かえってものの見方がせまくなってしまう可能性があるからだ。
その後、いきものを観察しているうちに、ぼくは、人間以外の動物には死がわからないのではないかと思うようになった。
たとえば、母猫が死んで動かなくなったとき、仲のよかった娘猫がそばに寄る。見た目は変わらないから、娘猫はいっしょうけんめい母猫に向かって鳴いたりして、非常に不思議そうな顔をしている。しかし、母猫が死んだことはわかっていない。
それにくらべて、人間というのは、どうもそうとう昔から死ということを考えていたらしい。
死後のことを全部考えて、政治体制までつくる。こんな動物はほかにはいないと思った。
人間は死を知っているから社会システムをつくり、墓や慰めの歌といった、さまざまな文化をつくった。そんなふうに発想するととてもおもしろくて、文化人類学にも興味を持った。
要するに、人間と動物の違いは死と美を知っているか否かにあるのだなどということは、まともに生物を見ていたら思いつかない話なのだ。
もっとも、いろんなことに興味を持つと、なかなかちゃんとした学者になれないといわれたりもした。あまりものしり屋になるのも幸せなことではないなあと思い、ちゃんとした動物学者になるべく勉強したが、やはり自分の中に複数の視点を持つことはユニークな立場を生んだ。
その後、人間とはどういういきものかを考えはじめ、死がいろんなイリュージョンを生み出すという考えをはっきり提唱した。
日本はドイツ哲学の流れが強いのか、しばしば、
人間は真実を追究する存在だといわれるが、むしろ真実でないこと、つまりある種のまぼろしを真実だと思い込むほうがあたっているのではないか。
まぼろしをまぼろしでないと思い込んでしまったものがイリュージョン。
そう定義すると、人間はほとんどイリュージョンだけで世界をつくっていることが見えてくる。
真実などないのだと考えると、不安な気持ちにならないかと聞かれることがある。
ぼくは、真実とか真理とかいう言葉が嫌いだったのだろう。そういうものがほんとうにあるのだろうかと、若いころから疑問に思っていた。真理を探究しているなどと聞くと、かえって真理という言葉をつけたものが嫌いになったりするくらいだ。
真理があるとおもっているよりは、みなイリュージョンなのだと思い、そのつもりで世界をながめてごらんなさい。
世界とは、案外、どうにでもなるものだ。人間には論理を組み立てる能力がかなりあるから、筋が通ると、これは真理だと、思えば思えてしまう。
人間といういきものは、そういうあやしげなものだと考え、それですませてしまうこと。
それがぼくのいういいかげんさだ。キリキリつきつめていくのはどこかおかしい。
人間はイリュージョンという変なものをものを持っている存在なのだと認めると、たとえば生物学的に猿と人間は近いというが、ぼくにはそれがかなりいいかげんなことに思える。人間の姿のもとが猿にある、そんなこと、ほんとうかいなと。
動物を見ていると、決してそういうふうに進化していると思えない。鳥のもとは魚だというが、進化ということひとつとっても、そうとうにイリュージョンが入り込んでいるのだろう。
もとのいきものはだんだんに変化して新しいいきものができるかというと、実際には新しいものはパッと段階を飛んでいる。もとより自然とはそういうものではないかと思うようになった。もちろん、これもほんとうのところはわかならいが。
つきつめないほうがいいのだろうと思う。ぼくの本にはいいかげんんでとどまっているものがいっぱいある。それはそれ以上いうと、イリュージョンの領域に入ってしまうからだ。
人間の認識する世界はそういうものだと受けとめるいいかげんさがないと、逆に人間はおかしくなるのではないか。
かたわらにいつも、イリュージョンだという悟性を持つこと。
ゆらぎながら、引き裂かれながら、おおいにイリュージョンの世界を楽しめばいいと思うけれど、結局はさじかげんなのだと思う。
■宙に浮くすすめ
「科学的に見ないとちゃんと正しくものが理解できない」
そういう意見を耳にしてぼくは疑問に思った。じゃあ、科学的に見ればちゃんとものがわかるというのは、ほんとうのことなんだろうか。そもそも科学というのはそんなにちゃんとしたものだんだろうか。そんなことをつい考えてしまったのだ。
それからは科学といわれる態度をめぐってずいぶん議論した。科学的にこうだと考えられるという話が、しばらくするとまったく間違いだったということはよくある。
人間は理屈にしたがってものを考えるので、理屈が通ると実証されなくても信じてしまう。
実は人間が信じているものの大部分はそういうことではないだろうか。
いつもぼくが思っていたのは、科学的にものを見るということも、そういうたぐいのことで、そう信じているからそう思うだけなのではないかということだ。
本来いない動物の話を、あたかもいるように理屈っぽく考えて示すと、人はそれにだまされる。
人間の場合は、筋さえつけば現実に存在してしまうというところまでいくのが特徴だ。
ちゃんとした理屈に則っていると思えるような議論をすると、幽霊でも何でも存在すると証明してしまう。
それをおもしろがるのはよいけれど、理屈にだまされることには気をつけなければ、と思った。そして次に、それで遊んでやろう、あるいは人を遊ばしてやろうと思った。
何が科学的かということとは別に、まず、人間は論理が通れば正しいと考えるほどバカであるという、そのことを知っていることが大事だと思う。
そこをカバーするには、自分の中に複数の視点を持つこと、ひとつのことを違った目で見られることではないかと思う。
一般の人は科学の目で、逆に科学者は一般の人の目でものを見ると、いつもとは別の見方が開けるだろう。誰にとってもものごとを相対化させて見ることは必要だ。
普通、我々は、科学的な目とは、あるパターンのものの見方だと思っている。日常、人々はいちいち科学的なパターンでものを見ないから、正しくないようにいわれるがそんなことはない。
正しく見えることと、ほんとうに正しいかどうかは関係ない。そう見れば見えるだけの話だ。
まだ若手の研究者だったころから、ずいぶんそういう議論をしてきた。
相手は自分たちを進歩的だと思っている科学者の会だったりしたから、その人たちにはきっとどうしようもない人間だと思われていただろう。
しかしぼくは、科学はひとつのものの見方にすぎないと教えてくれるいくつかの書物に出会えて、本当によかったと思っている。
おかげで科学によって正しい世界が見えると信じ込む人間にならずにすんだ。
神であれ、科学であれ、ひとつのことにしがみついて精神の基盤とすることは、これまでの人類が抱えてきた弱さ、幼さであり、これからはそういう人間精神の基盤をも相対化しないといけないのではないか。
頼るものがあるほうが人間は楽だ。それにしたがい、疑問には目をつぶればいいのだから。
でも引きこもりやカルト、無差別殺人といったさまざま現在の問題には、どれも自分の精神によって立つところを求めて、暗い洞窟に入り込んでいった様子が見える。
どんなものの見方の相対化して考えてごらんなさい。
科学もそのうちのひとつの見方として。
自分の精神のよって立つところに、いっさい、これば絶対というところはないと思うと不安になるが、その不安の中で、もがきながら耐えることが、これから生きていくことになるではないかとぼくは思う。
近い将来、人類はほんとうに無重力空間に出て行く。
ならばその精神もまた同じように、絶対のよりどころのない状態をよしとできるように成長することが大切ではないだろうか。
それはとても不安定だけれど、それでこそ、生きていくことが楽しくなるのではないだろうか。
よって立つ地面がないということが、物理的な意味でも精神的な意味でもこれからの人間の最大のテーマなのだと思う。あるものに否応なくのっかり、それに頼って生きていくのはこれまでの話、普通の話という気がする。
科学者として話してくださいとよく頼まれる。ぼくはずっとそれが不満だった。
科学だけではつまらないでしょう?知性というもの、それがあるということはどういうことか、そういう話をしたい。
それはやわらかでも何にも縛られない。科学ではなく知性こそが、このいきもののほんとうの力だと思っている。
どうですか?とっても気さくでユーモアのある素敵な方だったんだろうな~って思いますよね。
2009年11月にこの世を去ってしまった日高さん。今、あなたの本に会って一度あなたに会ったみたかったと、心より残念に思います。本当に、本当に。。。
あなたの本に出会ったワクワクとドキドキを私はずーっとあたためていきたいと思います。





