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Posted by TI-DA at

2012年02月07日

「世界を、こんな風にみてごらん」

今日は動物行動学者の日高敏隆さんが書いた「世界を、こんな風にみてごらん」をご紹介します。

帯には脳科学者の茂木健一郎さんの推薦があり「学問をすることが、生きることと一致する。そんな奇跡への道筋を先生は教えてくださった」とあります。

 

この本を手に取った理由は、

『人間はイリュージョンを持ついきものなのだ。イリュージョンなしに生きられないといってもいい。』 

この一小節が目についたから。

 

では、さらにちょっとだけ抜粋してみましょう。
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「なぜ」をあたため続けよう

ぼくは、小学校のころ学校に行かなかった。戦時教育下に、いわば登校拒否のぼくがすごした場所は、まだ東京にそこかしこに残る原っぱだった。

 

あるとき、枝にいっしょうけんめいはっている芋虫に思わず話しかけたことがある。「おまえはどこに行くの?何を探しているの?」

 

芋虫は答えなかったけど、ぼくにとって、それは大切な原点だったかもしれない。

 

人間、この変わったいきもの

たとえば人が死ぬ。何か思いがけない理由で死ぬと、葬儀では「故人もこんなことになって驚いているにちがいない」などという。

 

まるで死者がどこかにいて、その状況を見ているかのように。そして死んだ人の今の気持ちをくみ取ろうとする。

 

そのことを人間はあまり変だと思っていないけれども、ほかの動物にくらべるとそうとうに変わっている。

 

人間はイリュージョンを持ついきものなのだ。イリュージョンなしに生きられないといってもいい。

 

神話や民話、伝説など、人間が昔から伝えてきたストーリーを読んでいると、人間にとって死ぬことはものすごく大事な問題だということがわかる。

英語に「dead」という言葉がある。死んでいるということ。

 

しかし、その言葉を使って本人がアイアムデッド(私は死んでいる)と述べることはありえない。

あくまで、死者の隣にいる人が「この人はデッドだ」と表現する。

 

そういうことで、いった人間は、ひるがえって自分が生きているを確認できる。

 

実はそのことが非常に大事ではないかという気がしてる。

 

元気なひとはあまり死を考えないけれども、身近な人が亡くなったり、自分が病気になったりして死を意識すると、いったい今までやったことはどうなるのかとか、死んで自分がいなくなったらその後はどうなるだろうとか、それまで考えなかったことを考えはじめる。

 

死んだらものごとは終わる。自分がいなくなる。そして自分が死んでいるということを自分ではいえない。考えてみると、死というのはとても変な状態だ。

 

死を知っていることが人間とほかの動物との違いだと、ぼくが考えはじめたのは、それほど若いときのことではない。美を感じることもほかの動物とは違う。いずれもわりに近年、とくに重視して考えるようになった。

 

・・・ある先生が、生きていることはどういうことかを生物学の本に書いた。それを読んで初めてぼくも生きているということはどういうことか考えるようになった。

 

・・・そんなことを考えると、人間はまともな先生についてはいけないのだという気がしてくる。かえってものの見方がせまくなってしまう可能性があるからだ。

 

その後、いきものを観察しているうちに、ぼくは、人間以外の動物には死がわからないのではないかと思うようになった。

 

たとえば、母猫が死んで動かなくなったとき、仲のよかった娘猫がそばに寄る。見た目は変わらないから、娘猫はいっしょうけんめい母猫に向かって鳴いたりして、非常に不思議そうな顔をしている。しかし、母猫が死んだことはわかっていない。

 

それにくらべて、人間というのは、どうもそうとう昔から死ということを考えていたらしい。

 

死後のことを全部考えて、政治体制までつくる。こんな動物はほかにはいないと思った。

 

人間は死を知っているから社会システムをつくり、墓や慰めの歌といった、さまざまな文化をつくった。そんなふうに発想するととてもおもしろくて、文化人類学にも興味を持った。

 

要するに、人間と動物の違いは死と美を知っているか否かにあるのだなどということは、まともに生物を見ていたら思いつかない話なのだ。

 

もっとも、いろんなことに興味を持つと、なかなかちゃんとした学者になれないといわれたりもした。あまりものしり屋になるのも幸せなことではないなあと思い、ちゃんとした動物学者になるべく勉強したが、やはり自分の中に複数の視点を持つことはユニークな立場を生んだ。

 

その後、人間とはどういういきものかを考えはじめ、死がいろんなイリュージョンを生み出すという考えをはっきり提唱した。

 

日本はドイツ哲学の流れが強いのか、しばしば、

人間は真実を追究する存在だといわれるが、むしろ真実でないこと、つまりある種のまぼろしを真実だと思い込むほうがあたっているのではないか。

 

まぼろしをまぼろしでないと思い込んでしまったものがイリュージョン。

 

そう定義すると、人間はほとんどイリュージョンだけで世界をつくっていることが見えてくる。

 

真実などないのだと考えると、不安な気持ちにならないかと聞かれることがある。

 

ぼくは、真実とか真理とかいう言葉が嫌いだったのだろう。そういうものがほんとうにあるのだろうかと、若いころから疑問に思っていた。真理を探究しているなどと聞くと、かえって真理という言葉をつけたものが嫌いになったりするくらいだ。

 

真理があるとおもっているよりは、みなイリュージョンなのだと思い、そのつもりで世界をながめてごらんなさい。

 

世界とは、案外、どうにでもなるものだ。人間には論理を組み立てる能力がかなりあるから、筋が通ると、これは真理だと、思えば思えてしまう。

 

人間といういきものは、そういうあやしげなものだと考え、それですませてしまうこと。



それがぼくのいういいかげんさだ。キリキリつきつめていくのはどこかおかしい

 

人間はイリュージョンという変なものをものを持っている存在なのだと認めると、たとえば生物学的に猿と人間は近いというが、ぼくにはそれがかなりいいかげんなことに思える。人間の姿のもとが猿にある、そんなこと、ほんとうかいなと。

 

動物を見ていると、決してそういうふうに進化していると思えない。鳥のもとは魚だというが、進化ということひとつとっても、そうとうにイリュージョンが入り込んでいるのだろう。

 

もとのいきものはだんだんに変化して新しいいきものができるかというと、実際には新しいものはパッと段階を飛んでいる。もとより自然とはそういうものではないかと思うようになった。もちろん、これもほんとうのところはわかならいが。

 

つきつめないほうがいいのだろうと思う。ぼくの本にはいいかげんんでとどまっているものがいっぱいある。それはそれ以上いうと、イリュージョンの領域に入ってしまうからだ。

 

人間の認識する世界はそういうものだと受けとめるいいかげんさがないと、逆に人間はおかしくなるのではないか。

 

かたわらにいつも、イリュージョンだという悟性を持つこと。

 

ゆらぎながら、引き裂かれながら、おおいにイリュージョンの世界を楽しめばいいと思うけれど、結局はさじかげんなのだと思う。

 

 

宙に浮くすすめ

「科学的に見ないとちゃんと正しくものが理解できない」

そういう意見を耳にしてぼくは疑問に思った。じゃあ、科学的に見ればちゃんとものがわかるというのは、ほんとうのことなんだろうか。そもそも科学というのはそんなにちゃんとしたものだんだろうか。そんなことをつい考えてしまったのだ。

それからは科学といわれる態度をめぐってずいぶん議論した。科学的にこうだと考えられるという話が、しばらくするとまったく間違いだったということはよくある。

 

人間は理屈にしたがってものを考えるので、理屈が通ると実証されなくても信じてしまう。

実は人間が信じているものの大部分はそういうことではないだろうか。

 

いつもぼくが思っていたのは、科学的にものを見るということも、そういうたぐいのことで、そう信じているからそう思うだけなのではないかということだ。

 

本来いない動物の話を、あたかもいるように理屈っぽく考えて示すと、人はそれにだまされる。

 

人間の場合は、筋さえつけば現実に存在してしまうというところまでいくのが特徴だ。

 

ちゃんとした理屈に則っていると思えるような議論をすると、幽霊でも何でも存在すると証明してしまう。

 

それをおもしろがるのはよいけれど、理屈にだまされることには気をつけなければ、と思った。そして次に、それで遊んでやろう、あるいは人を遊ばしてやろうと思った。

 

何が科学的かということとは別に、まず、人間は論理が通れば正しいと考えるほどバカであるという、そのことを知っていることが大事だと思う。

 

そこをカバーするには、自分の中に複数の視点を持つこと、ひとつのことを違った目で見られることではないかと思う。

 

一般の人は科学の目で、逆に科学者は一般の人の目でものを見ると、いつもとは別の見方が開けるだろう。誰にとってもものごとを相対化させて見ることは必要だ。

 

普通、我々は、科学的な目とは、あるパターンのものの見方だと思っている。日常、人々はいちいち科学的なパターンでものを見ないから、正しくないようにいわれるがそんなことはない。

 

正しく見えることと、ほんとうに正しいかどうかは関係ない。そう見れば見えるだけの話だ。

 

まだ若手の研究者だったころから、ずいぶんそういう議論をしてきた。

 

相手は自分たちを進歩的だと思っている科学者の会だったりしたから、その人たちにはきっとどうしようもない人間だと思われていただろう。

 

しかしぼくは、科学はひとつのものの見方にすぎないと教えてくれるいくつかの書物に出会えて、本当によかったと思っている。

 

おかげで科学によって正しい世界が見えると信じ込む人間にならずにすんだ。

 

神であれ、科学であれ、ひとつのことにしがみついて精神の基盤とすることは、これまでの人類が抱えてきた弱さ、幼さであり、これからはそういう人間精神の基盤をも相対化しないといけないのではないか。

 

頼るものがあるほうが人間は楽だ。それにしたがい、疑問には目をつぶればいいのだから。

 

でも引きこもりやカルト、無差別殺人といったさまざま現在の問題には、どれも自分の精神によって立つところを求めて、暗い洞窟に入り込んでいった様子が見える。

どんなものの見方の相対化して考えてごらんなさい。

 

科学もそのうちのひとつの見方として。

 

自分の精神のよって立つところに、いっさい、これば絶対というところはないと思うと不安になるが、その不安の中で、もがきながら耐えることが、これから生きていくことになるではないかとぼくは思う。

 

近い将来、人類はほんとうに無重力空間に出て行く。

ならばその精神もまた同じように、絶対のよりどころのない状態をよしとできるように成長することが大切ではないだろうか。

 

それはとても不安定だけれど、それでこそ、生きていくことが楽しくなるのではないだろうか。

 

よって立つ地面がないということが、物理的な意味でも精神的な意味でもこれからの人間の最大のテーマなのだと思う。あるものに否応なくのっかり、それに頼って生きていくのはこれまでの話、普通の話という気がする。

 

科学者として話してくださいとよく頼まれる。ぼくはずっとそれが不満だった。

 

科学だけではつまらないでしょう?知性というもの、それがあるということはどういうことか、そういう話をしたい。

 

それはやわらかでも何にも縛られない。科学ではなく知性こそが、このいきもののほんとうの力だと思っている。

 



どうですか?とっても気さくでユーモアのある素敵な方だったんだろうな~って思いますよね。

200911月にこの世を去ってしまった日高さん。今、あなたの本に会って一度あなたに会ったみたかったと、心より残念に思います。本当に、本当に。。。

あなたの本に出会ったワクワクとドキドキを私はずーっとあたためていきたいと思います。

 


  

Posted by yacco369-内藤康子 at 20:00Comments(5)お勧めBOOK

2011年07月18日

「タオ」老子⇒飯だけはたっぷり喰う。

みなさん、こんにちは。

今日は本のご紹介。


老子って皆さんご存知ですよね。

私も学校で習いましたが、名前だけしか覚えてませんでした。

で、阿部さんのいまここ塾でタオという名前を聞き、本屋にいってこの本を偶然(偶然はないけど)見つけたんです。

この本を読むと老子は悟りを開いていたことが分かります。道教のこともほとんど知りませんが、世界のマスターたちは、やはりサムシング・グレートと繋がっているんですね~。

宗教っていったいなんでしょうか?
みんな根っこを辿れば、同じソースから発信しているのに、うわべの違いばかりを強調してますね。

ちなみに老子は紀元前6世紀の存在したと言われています。これを読むと私たちは本当に変わってませんね。

そろそろこのお金や欲でまみれたヒーラルキーも終焉にしたいところです。

ご紹介する老子の訳は、自由訳で書かれているので、すごく読みやすい!
是非、ご覧くださーい。
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「タオ」老子 加島祥造著 ちくま文庫から

第三章 飯だけはたっぷり喰う。

世界が
頭のいいやつを褒めるもんだから
ひとはみんな
利口になろうとあくせくする。
金や宝石を大事にするから
盗人がふえる。
世の中が
生きるのに必要のないものまで
やたら欲しがらせるから
みんなの心がうわずってしまうんだ。

だから道(タオ)につながる人は
あれこれ欲しがる心を抑えて
飯だけはたっぷり喰う。
野心のほうは止めにして
骨をしっかりこしらえるんだ。

みんなが
無用な情報や餘計な欲をもたなければ
ずるい政治家や実業家だって
つけいる隙がないのさ。
そうなんだ、
無用な心配と餘計な欲をふりすてりゃあ
けっこう道はつくもんだ、
行き詰ってもー

第七五章 いま生きている命こそ貴(とうと)い


これから言うのは、
政治の話ととっていいが
しかし、人間の身体にも
よく当てはまることだよ。

政治のリーダーとも人間の頭脳とも
取っていいのだか、とにかく
「頭」が、
身体(ボディ)から、
やたら税金を取り立てると
ボディは飢えはじめる。
ボディのほうでは、
どうにもできない。
頭があれこれの欲望に駆られて
ボディを、
やたらこき使うと、
ボディはもう死んでも構わんと思うようになる。
とにかく頭が快楽や野心に熱中すると、
ボディは死にたくなるんだよ。
こうなる前に
頭という領主の酷使から
ボディを守ってやれねばならんのだ。
どうしたらいいかって?それはね、
ボディ内にある命の声に耳をすますことだ。
人生を
あんまり犠牲にしないことだ。
なんといっても
いま生きている命こそ
貴いのだからね。

政治のリーダーもまずこれを、
第一に考えるべきなのだ。

第五四章 まずは君自身が「自由になること」

タオのエネルギーが、
その人のなかに植え込まれると、
ちょっとやそっと揺さぶられたって抜けやしない。
あのパワーをしっかり抱いた人は、
他人や社会に引きずり廻されない。そして
その命の活力や、
遠くの子孫にまで伝わっていく。
だってそれは大自然のエネルギーだからさ。

これを身にみにつけたとき、君は
いろんな束縛から自由になる。
すると君の家族も、きっと、
この柔らかな活力を持つようになる。
村だって同じだよ。もし、
こういう家族がふえれば、村はじっくり落ち着いて
いつまでもつづくものになるだろう。
国家だってそうさ。
国が大自然の力を貴べば、
国は豊かになるだろう。そしてやがては、
こういう豊かさをゆきわたる世界が
創られるんだ。

だから、大切なのは
自分個人のなかに、
タオの活力を据えることだ。だたしそれは、
修身斉家治国平天下につながる
なんてことじゃないんだ。
各人がただ、自分のなかの活力を思い
それを大切にすることでいいんだ。
それがひとつの家に
じっと湧きはじめるのを思えばいい。
ひとつの村に、
ひとつの国に、
どれほど広がってゆくかを、思えばいい。
そうすれば、
全世界のほんとの姿がみえてくるー
いつかゆきわたるにちがいない静かな平和。
それはこういう目で見ることから
実現されるんだよ。
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最後まで読んで頂き有難うございました。  

Posted by yacco369-内藤康子 at 12:17Comments(1)お勧めBOOK

2011年07月06日

『創造の翼』

おはようございます。

今日は私の好きな本をご紹介。
ジョン・アレフ『創造の翼』から2編。

~行った道が行く道~
行こうとした道が、行く道とは限らない。
行った道が行く道。
選ぼうとした道が、選ぶ道とは限らない。
選んだ道が、選ぶ道。
歩いた道が、歩く道。
歩こうと思った道が、道とは限らず。
買った人が、買う人で、
買おうと思ってる人が、買う人とは限りません。
その事が止まったのであれば、止まることになっていたもの、
事を止めたいからといって、止められるとも限りません。
事が止まった時に、止まる時です。
そしてその時、止める時であり、止められる時です。
道は、心と感じるまま進むがよく、道があればその道を、
道なき時は道を創り、ただ進んでいくのみ。
進んだ道の後に、道ができていくのです。

~困ること出来事あらず~
困る出来事があるのではなく、困る考え方をするので、その事に困ってしまうのです。
事はいずれも中立、そして無。
意味をつけてるのは、自ら。
困難となるとらえ方を外す。
今をよしとされよ。
それはそれでよいのです。
たとえ思い通りにいかなくても、その流れでよいのです。
後でわかります。

ジョン・アレフさん曰く、異なる事を受け入れたとき、羽をつけて飛べるのです。
だから、つばさは『翼』と書きます。

ご本人の講演会にも伺いしましたが、いい意味で強烈で楽しかったです。
宇宙人?なんですかね。
  

Posted by yacco369-内藤康子 at 08:15Comments(1)お勧めBOOK