2011年06月07日
所有しなくても生きていけます
みなさん、こんにちは!
今日はいかがお過ごしでしょうか?
さてさて先日UPしたお金の話、皆さん、ご理解いただけましたか?
私たちは本来お金がなくても暮らしていけるって想像したことがありますか?
昔と違って、私たちにはパソコンもあるし、世界中と繋がるネットワークが出来ましたし、モノはすでに世の中にあふれています。
モノ⇒所有。
私のモノ、あなたのモノ、誰かのモノ。
所有について考えてみると、さらにこの世界の仕組み、システムが分かりやすいかも知れません。
以下、シルバーバーチャンのHPより転載します。
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『第一、自然のものを所有するとはどういうことか。』
大いなる自然を誰それの所有とすること自体が不自然極まりないものである。
土地は地球惑星の一部であり、それを線引きして所有し、山々の木々も自然に帰属するものであるのにそれを切り出し値段をつけ、買い付け、家を建てて所有し、または庭木と称して値段をつけ、買い付け「私の庭木」として所有し、仲間である犬、猫に宿る生命をも愛玩動物という枠組みにはめ込み、これに値段をつけて売買して所有する。
それらの所有物に損害を与えた与えないで争いを起こし、損害賠償に備えて保険制度を作り「安全」「保障」さえも所有する。
自動車始め様々な機器など物理、化学反応などを応用して作り出し(その技術未熟ゆえにそのままでは自然には帰らぬものまで作り出し)
所有するも、そもそもは自然に既に存在する原料を加工したに過ぎず、元は大自然に帰属する要素である。
無からの創造ではなく、大自然に帰属するものに単なる造作を加えて所有する。
これら全て広大無辺なる大宇宙の一部を「私個人のもの」とすることが不自然であると何故気付かぬか。
この宇宙間の何ものも所有の対象とはならないにもかかわらず、貨幣経済という幻想のシステムが所有という概念に拍車を掛ける。
人間同士の間においてのみ、「お金」を支払うことで(たったそれだけのことで)、
大宇宙の一部を「私のものである」と高らかに宣言するという幻想であると同時に驕り高ぶる姿である。
原料採掘から加工へ、加工から販売へ、販売から消費へと物が動き、反対の流れに「お金」が動く。
消費から販売へ、販売から加工へ、加工から原料採掘へ・・・では原料採掘からどこへお金が動くのか。
大自然へ、または大宇宙へお金を支払うとでもいうのか。
誰も何も払わないし、誰がそのようなクダラナイものを受け取るというのか。
原料採掘に際しても、その場所を所有する段階で支払が発生しているが、土地の所有者は歴史を遡れば一番最初はタダでその土地を大自然に線引きして「私のもの」と勝手に宣言して奪ってきたのである。
初発は原住民の縄張り争いに始まり、戦争のたびに地図が書き換えられてきた領土のように、国家間の線引き、所有もこれに同じである。(周囲を見渡して見ると、人間がいかに精巧にモノを造作しようとも、人間が無から創造したモノなどこの大宇宙間には何一つない。)
------------------------------------------------ (転載終わり 続きはここから)
養老孟司さんの講演会で彼が言ってたことを思い出します。
「人間は誰しも何かを信じてるというのは、間違いないですね。私は何も信じないという人も何も信じないということを信じてるんです。」
人間って面白い。
それでは、私は何を信じてるって?
みんなの信じているものが変われば、世界は変わるということです。
みんなが所有せずとも自然と共存し、好きな仕事をして助け合って生きている。
自然との共存から日々新しい事が発見され、さらに自然の豊かさに感謝できる世界。
そして、助け合いの中から私たちは成長していける。
考えるだけでワクワクしますね~♪
それでは、今日もゆったりと、気持ち良い一日しましょうね~
今日はいかがお過ごしでしょうか?
さてさて先日UPしたお金の話、皆さん、ご理解いただけましたか?
私たちは本来お金がなくても暮らしていけるって想像したことがありますか?
昔と違って、私たちにはパソコンもあるし、世界中と繋がるネットワークが出来ましたし、モノはすでに世の中にあふれています。
モノ⇒所有。
私のモノ、あなたのモノ、誰かのモノ。
所有について考えてみると、さらにこの世界の仕組み、システムが分かりやすいかも知れません。
以下、シルバーバーチャンのHPより転載します。
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『第一、自然のものを所有するとはどういうことか。』
大いなる自然を誰それの所有とすること自体が不自然極まりないものである。
土地は地球惑星の一部であり、それを線引きして所有し、山々の木々も自然に帰属するものであるのにそれを切り出し値段をつけ、買い付け、家を建てて所有し、または庭木と称して値段をつけ、買い付け「私の庭木」として所有し、仲間である犬、猫に宿る生命をも愛玩動物という枠組みにはめ込み、これに値段をつけて売買して所有する。
それらの所有物に損害を与えた与えないで争いを起こし、損害賠償に備えて保険制度を作り「安全」「保障」さえも所有する。
自動車始め様々な機器など物理、化学反応などを応用して作り出し(その技術未熟ゆえにそのままでは自然には帰らぬものまで作り出し)
所有するも、そもそもは自然に既に存在する原料を加工したに過ぎず、元は大自然に帰属する要素である。
無からの創造ではなく、大自然に帰属するものに単なる造作を加えて所有する。
これら全て広大無辺なる大宇宙の一部を「私個人のもの」とすることが不自然であると何故気付かぬか。
この宇宙間の何ものも所有の対象とはならないにもかかわらず、貨幣経済という幻想のシステムが所有という概念に拍車を掛ける。
人間同士の間においてのみ、「お金」を支払うことで(たったそれだけのことで)、
大宇宙の一部を「私のものである」と高らかに宣言するという幻想であると同時に驕り高ぶる姿である。
原料採掘から加工へ、加工から販売へ、販売から消費へと物が動き、反対の流れに「お金」が動く。
消費から販売へ、販売から加工へ、加工から原料採掘へ・・・では原料採掘からどこへお金が動くのか。
大自然へ、または大宇宙へお金を支払うとでもいうのか。
誰も何も払わないし、誰がそのようなクダラナイものを受け取るというのか。
原料採掘に際しても、その場所を所有する段階で支払が発生しているが、土地の所有者は歴史を遡れば一番最初はタダでその土地を大自然に線引きして「私のもの」と勝手に宣言して奪ってきたのである。
初発は原住民の縄張り争いに始まり、戦争のたびに地図が書き換えられてきた領土のように、国家間の線引き、所有もこれに同じである。(周囲を見渡して見ると、人間がいかに精巧にモノを造作しようとも、人間が無から創造したモノなどこの大宇宙間には何一つない。)
------------------------------------------------ (転載終わり 続きはここから)
養老孟司さんの講演会で彼が言ってたことを思い出します。
「人間は誰しも何かを信じてるというのは、間違いないですね。私は何も信じないという人も何も信じないということを信じてるんです。」
人間って面白い。
それでは、私は何を信じてるって?
みんなの信じているものが変われば、世界は変わるということです。
みんなが所有せずとも自然と共存し、好きな仕事をして助け合って生きている。
自然との共存から日々新しい事が発見され、さらに自然の豊かさに感謝できる世界。
そして、助け合いの中から私たちは成長していける。
考えるだけでワクワクしますね~♪
それでは、今日もゆったりと、気持ち良い一日しましょうね~
Posted by yacco369-内藤康子 at 13:19│Comments(0)
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